中日ドラゴンズの歴代監督
「中日ドラゴンズの歴代監督」
2011年に2連覇して以降、中日ドラゴンズの優勝がなく、今後の躍進に期待されます。
今回は、そんな中日ドラゴンズの歴代監督について、歴代監督一覧、優勝・日本一回数ランキングをまとめました。
歴代監督一覧
まずは、歴代監督一覧(敬称略)について、在籍年、就任前の経歴、現役時代のポジション(主な所属)、通算監督成績をみていきましょう。
・池田豊:1936、東京六大学審判、三塁手(早稲田大)、19勝23敗(勝率.452)
・桝嘉一:1937・1943、名古屋軍(現・中日)選手、外野手(名古屋軍)、89勝97敗10分(勝率.458)
・根本行都:1938~1939途中、中央大監督、遊撃手(早稲田大)、40勝61敗6分(勝率.396)
・小西得郎:1939途中~1941途中、ライオン軍(吸収合併で消滅)監督、ポジション不明(明治大)、64勝102敗28分(勝率.386)
・本田親喜:1941途中~1942、名古屋軍選手、外野手(名古屋軍)、63勝92敗6分(勝率.406)
・三宅大輔:1944、阪急軍(現・オリックス)監督、捕手・内野手(大日本東京野球倶楽部、現・巨人)、13勝21敗1分(勝率.382)
・竹内愛一:1946、朝日軍(吸収合併で消滅)監督、投手(朝日軍)、13勝21敗2分(勝率.382)
・杉浦清:1946途中~1948・1963~1964途中、中部日本(現・中日)選手、遊撃手(中部日本)、249勝264敗11分(勝率.485)
・天知俊一:1949~1951・1954・1957~1958、帝京商業高(現・帝京高)監督、捕手(明治大)、439勝316敗22分(勝率.581)
・坪内道典:1952~1953、中日選手兼助監督、外野手(中日)、145勝100敗5分(勝率.592)
・野口明:1955~1956、中日選手、捕手・投手(中日)、151勝108敗1分(勝率.583)
・杉下茂:1959~1960・1968、中日選手、投手(中日)、177勝208敗9分(勝率.460)
・濃人貴実(本名:濃人渉):1961~1962、日鉄二瀬監督、遊撃手(西鉄軍、解散)、142勝116敗5分(勝率.550)
・西沢道夫:1964途中~1967途中、中日コーチ、投手・一塁手(中日)、253勝217敗10分(勝率.538)
・水原茂:1969~1971、東映(現・日本ハム)監督、三塁手(巨人)、179勝195敗16分(勝率.479)
・与那嶺要:1972~1977、中日コーチ、外野手(中日)、388勝349敗43分(勝率.526)
・中利夫:1978~1980、中日コーチ、外野手(中日)、157勝204敗29分(勝率.435)
・近藤貞雄:1967(代行)・1981~1983、中日コーチ、投手(中日)、184勝183敗33分(勝率.501)
・山内一弘:1984~1986、ロッテ監督、外野手(毎日、現・ロッテ)、154勝142敗26分(勝率.520)
・星野仙一:1987~1991・1996~2001、中日コーチ、投手(中日)、766勝668敗27分(勝率.534)
・高木守道:1986・1992~1995・2012~2013、中日コーチ、二塁手(中日)、445勝465敗30分(勝率.489)
・山田久志:2002~2003、中日コーチ、投手(阪急、現・オリックス)、128勝127敗5分(勝率.502)
・落合博満:2004~2011、解説者(選手引退後)、内野手(中日)、629勝491敗30分(勝率.562)
・谷繁元信:2014~2016、中日選手、捕手(中日)、171勝208敗11分(勝率.451)
・森繁和:2017~2018、中日ヘッドコーチ、投手(西武)、137勝181敗7分(勝率.431)
・与田剛:2019~、楽天コーチ、投手(中日)、68勝73敗2分(勝率.482、2019年までの成績)
初代監督の池田豊は、職業野球連盟(現・NPB)発足記念トーナメント(東京)で優勝しましたが、1年で退団します。これは、プロ野球審判部長(初代)となったためです。また、少年野球・アマチュア野球を視察し、後に西沢道夫などをスカウトする道筋を作りました。
球団設立当初から選手だった桝嘉一は、2年目の1937年に監督となるなど、選手兼任で監督やコーチを務めました。
根本行都は、秋田商業高や中央大の監督を務めた指導経験を買われて監督を務めます。就任1年目の1938年秋に5割を超える勝率で4位に入りますが、2年目は成績が低迷して途中で辞任しました。
小西得郎は、社会人野球の審判・プロ野球の審判を経て監督に就任します。また、戦後初のプロ野球の試合である東西対抗戦を実現し、新球団の設立(松竹ロビンス)や経営権の譲渡(セネタースから東急への譲渡)などにも関わり、野球殿堂の特別表彰も受けました。
本田親喜は、入団2年目途中から兼任監督となります。
三宅大輔は、全日本選抜として日米親善野球に出場すると同時に監督を務めました。大日本東京野球倶楽部は、全日本選抜のメンバーが中心となって結成されたプロ野球チームであり、プロ野球創立に携わったことによる野球殿堂の特別表彰を受けます。戦争時の中断もあり、監督を務めたのは1年だけです。
竹内愛一は、当時・弱小だった朝日軍をAクラスに導いた実績を買われて監督に就任しますが、酒絡みのトラブルで選手からの反発にあい、シーズン途中で辞任に追い込まれます。
杉浦清は、明治大大学院に進学したあと、明治大などの指導を行い、中部日本に選手として入団、兼任監督を務めました。日本初のナイトゲーム(巨人戦)を経験しています。
天知俊一は、帝京商業高の監督として杉下茂を指導しており、杉下茂が入団するときに監督に就任しました。監督復帰した1954年に、球団初となる優勝と日本一を達成します。プロ野球選手経験の無い監督のチームが日本シリーズを制したのは唯一(2020年時点)です。また、野球殿堂入りも果たしています。
坪内道典は、中日引退後に監督に就任し、2年ともAクラスと安定した成績を残しました。選手時代に、日本プロ野球初の通算1000試合出場、1000本安打を記録し、野球殿堂の競技者表彰を受けています。
野口明は、選手兼任監督として就任しました。中日選手時代はベストナイン(捕手)として選ばれています。
杉下茂は、現役途中に兼任監督として就任しました(監督を務めているときの試合出場はなし)。選手としては、200勝を挙げ、野球殿堂の競技者表彰を受けています。
濃人貴実は、社会人チームを都市対抗野球準優勝に導く活躍が買われて監督に就任しました。大幅なトレードを行い、与那嶺要や権藤博(社会人時代に日鉄二瀬の補強選手として都市対抗に出場)を入団させ、権藤博に関しては毎日のように登板させ「権藤、権藤、雨、権藤」とも言われます。2年ともAクラスでしたが、オーナーが変わった時に「六大学出身の監督が欲しい」理由で解任されました。
西沢道夫は、杉浦清が辞任後、ヘッドコーチから監督に就任し、中利夫、高木守道の1・2番コンビを置いて得点力アップにつなげます。選手時代に投手としては通算60勝を挙げノーヒットノーランを達成しており、野手としては1700本以上のヒットを打ちました。
水原茂は、巨人、東映の監督としてそれぞれのチームを日本一に導いた実績もあり、監督に就任します。優勝はできませんでしたが、星野仙一、島谷金二、谷沢健一といった若手の育成に力を入れました。また、野球殿堂入りもしています。
与那嶺要は、中日のヘッドコーチから監督に就任しました。1974年は、リーグ優勝し、巨人の10連覇を阻止しています。ハワイ出身で、野球をする前はアメフト選手、巨人ではベストナインを7回受賞するなど走攻守で活躍し、中日に移籍しました。野球殿堂の競技者表彰も受けています。

与那嶺監督
中利夫は、中日の選手・コーチを経て監督に就任しましたが、3位が最高成績でした。首位打者、盗塁王のタイトルを獲得し、ベストナインの表彰を5回受けるなど走攻守にわたって活躍しました。
近藤貞雄は、コーチ時代の1967年には西沢道夫の病気療養中に監督代行を務めています。さらに、1981年から監督を再度務めた時は、当時の日本では珍しかった投手分業制を積極的に取り入れ、1982年にはリーグ優勝を果たします。また、野球殿堂入りもしました。
山内一弘は、選手時代に2000本安打を打ち、野球殿堂の競技者表彰も受けています。中日監督としては、1年目に2位となりましたが、2年目は5位、3年目も成績を伸ばせず途中で退任となりました。
星野仙一は、中日を2回リーグ優勝に導き、北京オリンピックでは日本代表監督を務めています。最高勝率、最多セーブ投手(セ・リーグ初)のタイトルを獲得し、先発・中継ぎ両方で活躍しました。野球殿堂入りも果たしています。

星野監督
高木守道は、1986年に山内一弘退任後に監督代行を務めました。代行を含む7年間の監督生活でしたが、最高成績は2位です。選手としては2000本安打を打ち、野球殿堂入りもしました。巨人との10.8決戦の監督です。

高木監督
山田久志は、ヘッドコーチから監督に就任し、谷繁元信をFAで獲得するなどチームの強化に力を入れ、1年目に3位となります。2年目は20試合残した時点で負け越したこともあり解任されました(後任は佐々木恭介)。また、2009年にはWBCで投手コーチを務めています。選手としては、アンダースローで200勝を挙げ、野球殿堂入りの競技者表彰も受けました。

山田監督
落合博満は、8年間で1度の日本一、4度のリーグ優勝、すべての年でAクラスと好成績を残しています。選手としては、日本プロ野球史上では唯一となる3度の三冠王になり、野球殿堂入りの競技者表彰も受けました。

落合監督
谷繁元信は、選手時代の2014年に兼任監督を務め、2016年からは監督専任となりましたが、いずれもBクラスと苦しみ、2016年途中に退任します。選手時代は、捕手として3021試合に出場、2000本安打も達成しました。
森繁和は、谷繁元信退任後にヘッドコーチから監督代行に就任、翌年は監督に昇格します。若手を積極的に起用し、オフにはドミニカ共和国やキューバに赴きスカウト活動を行いましたが、Aクラスはなりませんでした。選手時代は、最優秀救援投手のタイトルを獲得しています。

森監督
与田剛は、若手の登用や海外視察など森繁和の取り組みを継続しています。選手としては、新人王や最優秀救援投手の表彰を受けました。

与田監督
優勝回数、日本一回数ランキング
続いて、優勝回数、日本一回数のランキングです。
優勝回数ランキング
4回:落合博満
2回:星野仙一
1回:天知俊一、与那嶺要、近藤貞雄
監督を務めた8年間全てAクラスだった落合博満が優勝回数でも最多となる4回でした。
星野仙一は、球団では最長となる11年間監督を務めたが、そのうち8度がAクラスと安定した成績を残し、落合博満に次ぐ2回の優勝をしています。
天知俊一は球団初、与那嶺要は2回目、近藤貞雄は3回目のリーグ優勝に導きました。
日本一回数ランキング
1回:天知俊一、落合博満
天知俊一は、監督に就任した1954年にリーグ優勝、西鉄との日本シリーズを制して球団初の日本一となります。
落合博満はリーグ優勝を4回決めていますが、日本一となったのはシーズン2位だった2007年で、クライマックスシリーズを勝ち上がって日本シリーズ出場を決めます。日本シリーズ(対戦相手:日本ハム)第5戦では、8回まで完全試合を達成していた山井大介から岩瀬仁紀に継投して日本一を達成しました。
中日ドラゴンズの歴代監督まとめ
以上が、中日ドラゴンズの歴代監督一覧、優勝回数、日本一回数ランキングでした。
選手時代から実績のあった人から変わった経歴の人まで様々な方が監督を務め、中日ドラゴンズの歴史を作った事が分かります。